こんばんは。さちです。
最近、忙しさに追われてブログを書く時間がなかなか取れませんでした。
卒論、バイト、人間関係。
やることが山積みで、ひとつ片付けてもすぐに別のタスクに取り掛からなくてはいけない。
そんな時間にストレスを抱えていても、「自分は進んでいるのだから大丈夫だ」と思うようにしていました。
けれど、やることが増えるほど、「私は何を目指しているのだろう」と考える時間も増えていったのです。
前に進んでいるはずなのに、自分を見失っていく感覚。
その中でも、振り返ってみれば学びがありました。
今回は、その期間に感じたことを綴っていきたいと思います。
感情に飲まれたことによる気づき
普段の私は、どちらかといえば理性的でいたい人間です。
感情を整理して、言葉にして、理解しようとする。
そうやって自分を保ってきたように思います。
けれど、人と深く関わろうとしたとき、その「理性的な自分」では処理しきれない感情が現れました。
不安。期待。寂しさ。安心したいという欲求。
感情は時に、そのまま置いておくことも大切です。
しかし、その時の私は言語化せずにはいられませんでした。
言葉にできれば理解できると思っていたし、理解されると思いたかったからです。
そしてその過程で、気づいたことがありました。
私は相手を見ているつもりで、自分を見ていたのだと。
相手の言葉に傷ついたとき。
返事を待ってしまうとき。
理解されたいと強く願ったとき。
そこにあったのは、「相手がどうか」だけではなく、「私は何を求めているのか」という問いでした。
人との関係は、ときどき、自分の内側を見つめる機会になるのだと気づけたのです。
けれど、結局、言語化したところで感情が綺麗に収まることはありませんでした。
理解したからといって、不安が消えるわけでもない。
そしてそれが、今の私にとっての「感情を置いておく」ということなのかもしれないと思えたのです。
強さだと思っていたもの
処理しきれない感情が現れたことで、もうひとつの学びもありました。
私は、自分のことを強い人間だと思っていました。
ひとりの時間も好きだし、感情に飲み込まれないようにすることが強さだと思っていたからです。
逆を言えば、感情が勝って理性が働かなくなることを、どこかで「弱さ」だと思っていました。
弱さを見せずに、自分の足で立っていたかった。
そうして感情を押し殺し、理性を保とうとした時、涙が出てしまいました。
私が弱さだと思っていたことが、彼の前で露呈してしまったのです。
その時、自分がとても情けなく思えました。
けれど、それは本当に「弱さ」だったのだろうか。
今思えば、私が不安や脆さを見ないために「強くあろう」としていた部分は、単に虚勢を張っていただけだったのかもしれません。
寧ろ、自分の感情に真剣に向き合えていなかったという意味では、それこそ弱さだったようにも思います。
人と深く関わることで、そういう自分が見えたのです。
私はずっと、理性と感情を分けて考えていたのだと思います。
感情に飲まれず、冷静でいられることが「大人」で、「強さ」なのだと。
けれど実際には、人を好きになることも、不安になることも、傷つくことも、人と関わる上では自然なことでした。
それなのに私は、「揺れてしまう自分」をどこかで恥ずかしいものとして扱っていたのです。
恋をすると人は馬鹿になる、という言葉があります。
今の私は、その言葉を否定できません。
相手の言葉ひとつで感情が揺れて、返事を待ってしまって、頭では「考えすぎだ」と思いながらも不安になる。
そんな自分を見て、「なんて小さい人間なんだろう」と思ってしまう瞬間もありました。
不安は希望の裏返し
けれど最近、それは単なる弱さではなく、「未来に期待しているからこそ生まれる感情」なのかもしれないと思うようになりました。
どうでもいい相手ならここまで悩まない。
失いたくないと思うから、不安になる。
理解し合いたいと思うから、言葉を探してしまう。
私の中にあった、「理解されたい」という欲求は、孤独や欠乏感だけから生まれていたのではなく、「この人ともっと深く関わりたい」という希望からも生まれていたのだと思います。
そして彼との関係は、私にとって「感情と理性のバランス」という前からの課題を、もう一度突きつけてくるようなものでした。
感情を抑え込むことでもなく、感情だけに飲まれることでもなく、その両方を抱えたまま自分を理解していくこと。
それが今の私に必要なことなのかもしれません。
では。次の投稿で。

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